24: 2015-01-09 (金) 17:35:39 admin |
現: 2022-12-11 (日) 16:12:44 admin |
| |~|10月19日|泉州堺において犬追物あり。山名時熈(七匹)|「和泉、堺御犬追物日記」(『後鑑』)| | | |~|10月19日|泉州堺において犬追物あり。山名時熈(七匹)|「和泉、堺御犬追物日記」(『後鑑』)| |
| |~|10月21日|又、和泉堺において犬追物あり。この日、若君始めて鳥を射たまふ山名時熈(九匹)|「和泉、堺御犬追物日記」(『後鑑』)| | | |~|10月21日|又、和泉堺において犬追物あり。この日、若君始めて鳥を射たまふ山名時熈(九匹)|「和泉、堺御犬追物日記」(『後鑑』)| |
- | |1394|明徳5年4月19日|義満、但馬国圓通寺に寺領寄附。|②家譜| | + | |1394|明徳5年4月19日|義満、但馬国圓通寺に寺領寄附。|[[②家譜P93>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之四#p0000093]]| |
| |~|(応永元年)| | | | | |~|(応永元年)| | | |
| |~|11月24日|山名満幸挙兵の報あり、この日赤松義則、之を討つため、美作に進発する。|「東寺百合文書」(⑤南北朝史』下)| | | |~|11月24日|山名満幸挙兵の報あり、この日赤松義則、之を討つため、美作に進発する。|「東寺百合文書」(⑤南北朝史』下)| |
| |~|3月20日|義満、山名満幸誅罸の賞として、出雲・隠岐両国守護職および闕所分を京極高詮にあてがう。[[*109>#nen109]]|「佐々木文書」(⑤南北朝史』下)| | | |~|3月20日|義満、山名満幸誅罸の賞として、出雲・隠岐両国守護職および闕所分を京極高詮にあてがう。[[*109>#nen109]]|「佐々木文書」(⑤南北朝史』下)| |
| |1398|応永5年|この年、義満、三職七頭を定む。|「南方紀傅」(『後鑑』)[[*110>#nen110]]| | | |1398|応永5年|この年、義満、三職七頭を定む。|「南方紀傅」(『後鑑』)[[*110>#nen110]]| |
- | |1399|応永6年9月21日|山名氏清の子息、宮田時清・宮田氏明、丹波に蟄居せしが、一揆を起こし、畑の城に籠る。[[*111>#nen111]]|②家譜P95| | + | |1399|応永6年9月21日|山名氏清の子息、宮田時清・宮田氏明、丹波に蟄居せしが、一揆を起こし、畑の城に籠る。[[*111>#nen111]]|[[②家譜P95>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之四#p0000095]]| |
| |~|10月13日|大内義弘、兵を率い和泉堺浦に到る。[[*112>#nen112]]|『堺記』、『応永記』| | | |~|10月13日|大内義弘、兵を率い和泉堺浦に到る。[[*112>#nen112]]|『堺記』、『応永記』| |
| |~|10月27日|義満、絶海中津を使者として堺に派遣し、大内義弘の慰撫につとめるが、義弘は従わず。[[*113>#nen113]]|『堺記』、『応永記』| | | |~|10月27日|義満、絶海中津を使者として堺に派遣し、大内義弘の慰撫につとめるが、義弘は従わず。[[*113>#nen113]]|『堺記』、『応永記』| |
| |~|~|義満、各社寺に戦勝を祈願させる。|「柳原家記録」(①大日7-4)| | | |~|~|義満、各社寺に戦勝を祈願させる。|「柳原家記録」(①大日7-4)| |
- | |~|11月5日|山名時熈兄弟、宮田時清を討つため丹波に向う。将軍家より曽我平次左衛門尉祐明を添えらる。|②家譜P95[[*114>#nen114]]| | + | |~|11月5日|山名時熈兄弟、宮田時清を討つため丹波に向う。将軍家より曽我平次左衛門尉祐明を添えらる。|[[②家譜P95>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之四#p0000095]][[*114>#nen114]]| |
| |~|11月8日|細川頼基、京極高詮、赤松義則、都合八千余騎にて、淀、山崎より、和泉国に発向す。|『堺記』[[*115>#nen115]]| | | |~|11月8日|細川頼基、京極高詮、赤松義則、都合八千余騎にて、淀、山崎より、和泉国に発向す。|『堺記』[[*115>#nen115]]| |
| |~|~|義満、東寺に陣す。御共の人々畠山基国、同満家、斯波義将、同義重、吉良、石塔、渋川、一色、土岐、今川、武田、小笠原、富樫、河野等都合三万余騎。|『堺記』、『応永記』| | | |~|~|義満、東寺に陣す。御共の人々畠山基国、同満家、斯波義将、同義重、吉良、石塔、渋川、一色、土岐、今川、武田、小笠原、富樫、河野等都合三万余騎。|『堺記』、『応永記』| |
| |~|11月14日|義満、八幡に陣し、其の日八幡より、管領、前管領を始として都合三万余騎、和泉国に発行す。|『堺記』、『応永記』| | | |~|11月14日|義満、八幡に陣し、其の日八幡より、管領、前管領を始として都合三万余騎、和泉国に発行す。|『堺記』、『応永記』| |
| |~|11月21日|足利満兼、幕府を援くと称して、武州府中へ発向す。[[*116>#nen116]]|『鎌倉大日記』| | | |~|11月21日|足利満兼、幕府を援くと称して、武州府中へ発向す。[[*116>#nen116]]|『鎌倉大日記』| |
- | |~|11月27日|山名時熈、丹波国から帰陣す。[[*117>#nen117]]|②家譜P96| | + | |~|11月27日|山名時熈、丹波国から帰陣す。[[*117>#nen117]]|[[②家譜P96>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之四#p0000096]]| |
| |~|11月29日|幕府の兵、大内義弘の堺城を攻める。|『堺記』、『応永記』| | | |~|11月29日|幕府の兵、大内義弘の堺城を攻める。|『堺記』、『応永記』| |
| |~|~|山名右衛門佐入道(時熈)、同民部少輔をはじめとして一門五百騎、北の方三の木戸を攻め破らんと戦う。[[*118>#nen118]]|| | | |~|~|山名右衛門佐入道(時熈)、同民部少輔をはじめとして一門五百騎、北の方三の木戸を攻め破らんと戦う。[[*118>#nen118]]|| |
| |1404|応永11年4月24日|伯山名澄幸、同国束積の内津間分を同国大山寺権現燈明料所として、同寺に寄進す。|「集古文書」(①大日7-6)| | | |1404|応永11年4月24日|伯山名澄幸、同国束積の内津間分を同国大山寺権現燈明料所として、同寺に寄進す。|「集古文書」(①大日7-6)| |
| |~|4月26日|これより先、幕府、山名時熈に安芸国を御料国として預ける。是日時、小早川・・・竹原・・・弘景に知行支証の提出を明治、六月中の参洛を促す。|「小早川文書」、⑥常熈年譜| | | |~|4月26日|これより先、幕府、山名時熈に安芸国を御料国として預ける。是日時、小早川・・・竹原・・・弘景に知行支証の提出を明治、六月中の参洛を促す。|「小早川文書」、⑥常熈年譜| |
- | |~|5月19日|山名持豊(少名を小次郎)生まれる。父時熈、母師義の女|「②家譜」P99| | + | |~|5月19日|山名持豊(少名を小次郎)生まれる。父時熈、母師義の女|[[②家譜P99>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之五#p0000099]]| |
| |~|6月12日|南溟昌運、但馬楞厳寺常楽院寺規を定める。|「楞厳寺文書」(⑥常熈年譜)| | | |~|6月12日|南溟昌運、但馬楞厳寺常楽院寺規を定める。|「楞厳寺文書」(⑥常熈年譜)| |
| |~|6月26日|幕府、安芸守護代山名満氏(氏清の子)をして同国地頭家人等の当知行新本所の支証を8月5日限提出すべきことを令せしむ。|「福原家文書」(①大日7-6)| | | |~|6月26日|幕府、安芸守護代山名満氏(氏清の子)をして同国地頭家人等の当知行新本所の支証を8月5日限提出すべきことを令せしむ。|「福原家文書」(①大日7-6)| |
| |~|11月22日|山名常勝教清(義理の孫)、入澤土佐入道に令して、石見周布観心に同国周布郷地の地を安堵し、渡付する。|「萩藩閥閲録」(⑥常熈年譜)| | | |~|11月22日|山名常勝教清(義理の孫)、入澤土佐入道に令して、石見周布観心に同国周布郷地の地を安堵し、渡付する。|「萩藩閥閲録」(⑥常熈年譜)| |
| |1413|応永20年1月22日|足利義持、山名時熈邸に渡御|「満済准后日記」(⑥常熈年譜)| | | |1413|応永20年1月22日|足利義持、山名時熈邸に渡御|「満済准后日記」(⑥常熈年譜)| |
- | |~|是月|山名小次郎(時熈の子)、足利義持の御前にて元服。十歳、義持の一字を賜り、持豊と名づく。|②家譜P99| | + | |~|是月|山名小次郎(時熈の子)、足利義持の御前にて元服。十歳、義持の一字を賜り、持豊と名づく。|[[②家譜P99>山名会/刊行物等/山名家譜/巻之五#p0000099]]| |
| |~|1月25日|足利義持、義嗣、青蓮院に詣でる。管領、山名八郎ら供奉する。|「教興卿記」(①大日7-17)| | | |~|1月25日|足利義持、義嗣、青蓮院に詣でる。管領、山名八郎ら供奉する。|「教興卿記」(①大日7-17)| |
| |~|3月8日|石見守護代入澤康明、幕府の旨を承け、同国益田秀兼をして、同国得屋郷四分方を安堵せしむ。|「益田文書」(①大日7-18)| | | |~|3月8日|石見守護代入澤康明、幕府の旨を承け、同国益田秀兼をして、同国得屋郷四分方を安堵せしむ。|「益田文書」(①大日7-18)| |