2: 2013-10-24 (木) 14:01:51 admin ソース 現: 2022-12-11 (日) 16:12:39 admin ソース
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*1.倶利伽羅「山名」について [#rd0b961f] *1.倶利伽羅「山名」について [#rd0b961f]
-**(1)倶利伽羅「山名一男家」について [#t23a6562] +**(1)倶利伽羅の山名家について [#t23a6562] 
-石川県津幡町刈安に在住している山名一男は(旧)倶利伽羅村刈安の生まれである。妻「智香子」は京都市生まれ、京都市育ちで長女「美穂」と長男「康介」の2人の子供をもうけている。一方、山名一男の父親は、刈安の隣地区の上野の生まれであり(倶利伽羅「山名」の発祥の地)。ここでの上野は「うえの」とも「こうずけ」とも呼ばず、「うわの」と呼んでいる。また、この(旧)倶利伽羅村は源(木曽)義仲と平維盛の寿永2年(1183年)の源平合戦「倶利伽羅峠の戦い」の地であり、歴史的にはよく知られた場所である。一方、母親は富山県南砺市にある(旧)上平村(五箇山)の生まれであり、この五箇山は「倶利伽羅峠の戦い」で敗れた平家の落人村との言い伝えがあり、平家ゆかりの地である。その夫婦の子である筆者は源氏と平家の両方の流れを共有している。+石川県津幡町刈安に在住している私は(旧)倶利伽羅村刈安の生まれである。妻は京都市生まれ、京都市育ちで長女と長男の2人の子供をもうけている。 
 +一方、私の父親は、刈安の隣地区の上野の生まれであり(倶利伽羅「山名」の発祥の地)。ここでの上野は「うえの」とも「こうずけ」とも呼ばず、「うわの」と呼んでいる。また、この(旧)倶利伽羅村は源(木曽)義仲と平維盛の寿永2年(1183年)の源平合戦「倶利伽羅峠の戦い」の地であり、歴史的にはよく知られた場所である。一方、母親は富山県南砺市にある(旧)上平村(五箇山)の生まれであり、この五箇山は「倶利伽羅峠の戦い」で敗れた平家の落人村との言い伝えがあり、平家ゆかりの地である。その夫婦の子である筆者は源氏と平家の両方の流れを共有している。 
**(2)何故この倶利伽羅に山名の姓があるのか [#tfa854eb] **(2)何故この倶利伽羅に山名の姓があるのか [#tfa854eb]
約40年前(1970頃)に祖父から聞いたところによると、昔、山名と名乗る者がこの(旧)倶利伽羅村上野に住み着いたという言い伝え(流れ者)がある。実際に戸籍を調べたところ、江戸時代後期(約200年前)にすでに山名という姓を名乗る人物が(旧)倶利伽羅村上野に住みついていたことを確認した。一方、地元にある「光現寺」というお寺の住職に尋ねたところ、お寺は古いが江戸時代中期に一度全焼しており、それ以前の情報を持ち合わせていないとのことであった。加えて、お寺のデータから祖先を調べることは容易ではなく、正確に把握できるとは限らないとも述べた。また、個人情報の取り扱いから、関係者以外の者が勝手に調査することもできない。現段階では江戸時代後期まで正確に掌握できたが、それ以前については全く推測の域を出ない。以上のことを踏まえ、まとめると次のようになる。 約40年前(1970頃)に祖父から聞いたところによると、昔、山名と名乗る者がこの(旧)倶利伽羅村上野に住み着いたという言い伝え(流れ者)がある。実際に戸籍を調べたところ、江戸時代後期(約200年前)にすでに山名という姓を名乗る人物が(旧)倶利伽羅村上野に住みついていたことを確認した。一方、地元にある「光現寺」というお寺の住職に尋ねたところ、お寺は古いが江戸時代中期に一度全焼しており、それ以前の情報を持ち合わせていないとのことであった。加えて、お寺のデータから祖先を調べることは容易ではなく、正確に把握できるとは限らないとも述べた。また、個人情報の取り扱いから、関係者以外の者が勝手に調査することもできない。現段階では江戸時代後期まで正確に掌握できたが、それ以前については全く推測の域を出ない。以上のことを踏まえ、まとめると次のようになる。
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