山名家譜 巻之三 ①
登場人物
| 記載人物(P39~P59) |
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| 山名時氏、山名 |
PDFデータ 
- 山名家譜第三巻PDFデータ
P039
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北條相模守高時を征伐の御企て
一、正慶二年癸酉の春東国の多勢
ありて闘乱におよぶ東国の諸大 将北條が下知を受て上洛す時氏 は鎌倉にありて将軍守邦親王 を守護し奉らる かさねて上洛あり北條高時が下
知として足利治部大輔高氏則将軍尊氏公也 名越尾張守高家を大将として 京都に赴しむ此時に時氏も高 氏とともに京都におもむかる同く 三月廿七日に鎌倉を発し同四月 十六日に京都に着陣あり 始め足利高氏鎌倉を発せらね臨
る丶の朝に望(臨)て仁木細川吉 良今川山名一色荒川石堂 |
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一、元弘元年(1331)辛未三月、後醍醐天皇が
北條相模守高時の征伐(倒幕)を企て挙兵(元弘の乱)し、東国の諸大将は執権北條氏の命を受けて上洛する。この時、時氏は鎌倉に留まり、九代将軍・守邦親王(八代将軍・久明親王の子)の護衛に当たる。
一、正慶二年(1333)癸酉の春、東国の軍勢重ねて
上洛をする。北条高時の命を受け、足利民部大輔高氏(将軍尊氏公)、名越尾張守(北條)高家を大将として京都に向かわせる。この時、時氏も高氏と共に京都へ向かう。
三月二十七日に鎌倉を出発し、四月十六日に京都に着陣する。
遡って足利高氏が鎌倉から出陣に臨む朝、高氏は仁木・細川・吉良・今川・山名・一色・荒川・石堂・渋川・高・上杉等の一族を集めて、
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渋川高上杉等の一族を集
て我賎(苟)しくも足利一家の棟梁 として源家一方の嫡流たるに 中世よりして北條家の附属 の如くになりゆけり今の時 に至りて志を立るの計なくば あるべからずと談ぜらるといえど も衆口まちまちにして一決しが たし時氏進て曰く今北條家 の躰を見るに彼氏族等奢 りを恣にして滅亡年を経 べからず此時に家を興され ずんば何のときを待給うべ きや只思召立給えと有けれ ば衆議一決して鎌倉を進 発あり四月十六日に京都に |
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「我、いやしくも足利家の統領であり、清和源氏一流の嫡流で有るに、中世の頃より源氏は北條家の付属のようになってしまった。今、この時にこそ志の計(北條への叛意)を立て無い等有り得ないことだ。」と語るが一同の意見はまちまちで、総意に至らず。
時氏は一同の前に進み出て、 「今の北條家の様子を見るに、彼一族は驕り高ぶって居り、滅ぶのに余り時は掛からない。この時に家(清和源氏)を再興せねば一体何時の機会を待てと言うのか。よくよく考えて頂きたい」と述べると、一同の考えは総意に至り鎌倉を出発する。 四月十六日に京都に着き、
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着き同十七日に海老名六郎
季行を密に伯耆国船の上 に遣わして北條が一族を追討 の綸旨を乞受らる海老名六郎 は此時の賞として備中国井 原庄を賜わる 一、建武二年乙亥七月に北條相模次
郎時行(高時が二男也)其叔父北條刑部少輔
時興と共に先亡の餘類を集て 関東に旗をあぐ天皇足利尊氏 公に勅ありて是を征伐あり同八月 二日京都を進発して参河国に 至り北條時行が勢と戦わる時行 破れて引退く尊氏公進んで鎌 倉に入らる時氏も此ときに尊氏 公に属して戦功あり鎌倉に入る |
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翌十七日に海老名六郎季行を密使として伯耆国船上山の後醍醐天皇の元に送り、北條一族追討の綸旨発行を願い出て、これを授けられる。
海老名六郎はこの恩賞として備中国井原庄を与えられる。 一建武二年(1335)乙亥七月に北條相模次
郎時行(高時の二男)が、その叔父・北條刑部少輔時興と共に北條側の残党を集めて関東で蜂起(中先代の乱)、天皇は足利尊氏公に勅を下して、これの征伐にあたらせる。
八月二日に京都を出発し三河に至って北條時行軍と戦う。時行軍は敗退し、尊氏公は(一時奪われていた)鎌倉に入る。時氏は尊氏軍に属して戦功を挙げる。 |
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の日時氏小荷駄を纒て後殿た
り同十一月十一日に竹下において大 に戦功あり 一、延元元年丙子正月将軍尊氏
公大軍を率(卒)いて京都に発向あ
り新田左兵衛督義貞と大渡に於 て合戦あり時に細川律師禅定 赤松筑前守範資と同じく時氏 一方の将として脇屋右衛門佐義助 の軍を討破り山崎に攻入るにより 新田義貞都を引退き天皇を 供奉し奉り比叡山に登る同月十一日 に時氏等の諸将尊氏公を守護 して入洛あり同じく十六日に尊氏 公と新田義貞と洛中において戦 いあり尊氏公の軍破れければ |
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鎌倉に入る日、時氏は小荷駄(兵糧や陣地設営具等を運ぶ部隊)を指揮し、後殿(最後尾か)たり
同十一月十一日、箱根竹ノ下において戦功を挙げる。 一延元元年(1336)丙子正月将軍尊氏
公大軍を率いて京都を出陣し、新田左兵衛督義貞と大渡(八幡市)に於いて合戦(淀大渡の戦)となり、細川律師禅定、赤松筑前守範資と時氏が対する将は脇屋右衛門佐義助の軍を討ち破り、山崎に進軍する。
新田義貞は都より退き、後醍醐天皇をお連れして比叡山に登る。 正月十一日に時氏ら諸将は尊氏を護衛し入洛する。 十六日に尊氏と新田義貞が洛中に於いて戦うが、尊氏軍が破れて、 |
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丹波路を差して引退る新田の
軍勢是を過て急に攻うつ時氏 返し合て勇を振い戦て万死を 逃れ梅津の里において尊氏公に 逢い桂川の辺に至る処に敵又急 に追い来る此において尊氏公 既に自害せんと仰けるを時氏 およそとどめて曰く凡大将たる人はかくの ごとくの急難を経て命をまっ とうし子孫の繁栄を期し威 名を後代に残を第一とせり今 ただただ敗軍に逢て一命を捨ら れん事は言甲斐なき所存なり と止められければ尊氏公此理に 伏して自害をとどまり松尾葉 室の間に至る処に仁木細川等則 |
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丹波街道に引き下がる。
この機に新田の軍勢は、体制が整わぬまま軍を進める。 そんな中、時氏は勇気を振るって引き返すが、逆に追い詰められ、九死に一生を得て梅津に逃れて尊氏公を合流する。 しかし桂川周辺には敵兵が至る所に潜んで居り、この時、尊氏公は自害を口にする。 時氏は落ち着いて「大将たる人は急難を乗り越え、己が命を全うし、子孫の繁栄を計り、威名を後世に残すことを第一とするべきで、今劣勢に陥ったまま、ここで命を投げ出すなどは何の価値も無い事」と言い押し留めると尊氏公も、この理に納得して自害を思い留まる。 松尾(梅津の対岸)・葉室(上桂周辺)には、仁木・細川等の |
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敗軍の士卒を集て追付て此
所に休息ありくれにおよび細 川禅定義貞の軍を討破り此 由を告るによりて尊氏公京都に 帰らる同廿七日新田義貞北畠顕家 楠正成名和長年等数万の軍勢 を引具して京都を攻む尊氏公 又利を失い同廿八日京都を落 て同廿九日に丹波国篠村に至り 内藤入道道勝が曽地の館 入らる此時に時氏は三千五百餘 騎に将として廿八日に仁和寺嵯峨 野の辺に向わる丶の故に京中の 合戦にあわず尊氏公の敗軍を聞 て直に跡を慕い尾宅にて追い つかる同二月二日に尊氏公内藤が |
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逃れて来た兵が集まっていた。
尊氏公・時氏らはそこに追い付き、しばしの休息を取る。 しばらくして細川禅定の軍が義貞軍を撃退したとの報告が届き、尊氏は京へと戻る。 正月二十七日、新田義貞・北畠顕家・楠木正成・名和長年等、数万の軍勢を引き連れて京都を攻める。
尊氏公は再び不利となり、二十八日に京都から退き、二十九日に丹波篠村(丹波篠山市)まで逃げ、内藤入道道勝の曽地(丹波篠山市曽地)の館に入る。 この頃、時氏は三千五百余の軍の大将として二十八日は仁和寺から嵯峨野辺りの京都北西部に向かっていた為、京市中での合戦には遭遇せず、尊氏公敗走の知らせを聞き、直ぐに後を追い尾宅(おけや)にて尊氏公一行に追いつく。
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館を発して摂州に赴かる時に
尊氏公舎弟左馬頭直義なら びに時氏と密かに相議して薬師丸 を京都に遣わして持明院殿の院 宣を乞しめらる同六日に尊氏公 芥川に至る新田義貞北畠顕家 楠正成三万餘騎を卒(率)いて追討ん とす尊氏公舎弟直義を先陣と し高武蔵守師直を左将軍と し時氏を右将軍として豊嶋河 原に於て大に戦いあり仁木左京 太夫宍戸安芸守岡部五郎左衛門尉 宗像大宮司等新田義貞の勢 に討破られて引退く故に尊氏 公忽に敗軍し九州をさして落 行かる同八日兵庫を発し宗像 |
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二月二日に尊氏公は内藤の館を出て摂津国に入った時、尊氏公は舎弟左馬頭直義並びに、時氏と密かに相談をして薬師丸という供の者を持明院殿(光厳上皇)の送り、新田義貞追討の院宣発布を願い出る。
二月六日に尊氏公は芥川(高槻市)に至り、北畠顕家・楠木正成の軍に三万余騎の兵を率いて追い討つ。 尊氏公舎弟の直義を戦陣に高武蔵守師直を左将軍、時氏を右将軍に豊嶋川原(箕面市・池田市)にて大合戦が起こる。 |
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が館に入り南遠江守宗継豊田弥
三郎光顕を使として太宰少弐貞 経入道妙恵に味方に参べき由を 仰らる妙恵則ち嫡子筑後守頼 尚に軍勢を差添て宗像が館に 来らしむ菊池肥後守武重是を 聞て菊池九郎武敏武重弟也がに軍士を そえて是を討しむ同三月二日に 尊氏公宗像が館を発し菊池が 陣に向わる尊氏公は赤地錦の直 垂に唐綾威の鎧を着て骨食太 刀又二つ銘と名づく頼政卿伝る処也を佩る舎弟左馬頭直義 は赤地の錦の直垂に紫革綴の鎧 を着て篠作太刀足利家代々の重宝也を佩かる 香椎の宮に参詣ありしに神職 の申上る旨有りて尊氏公の軍勢 |
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館(宗像市)に入る。
南遠江守宗継(南部氏)、豊田弥三郎光顕を太宰少弐貞経入道妙恵の元に向かわせ味方となるように説得する。 妙恵は早速に嫡子の筑後守(少弐)頼尚と軍勢を宗像の館に差し向ける。 この事を聞いた菊池肥前守武重は菊池九郎武敏(武重の弟)に兵を付けて、先ず少弐頼尚軍を討つ(その後、手薄になっていた少弐貞経の陣も襲う) 三月二日に尊氏公は宗像の館をでて菊池の陣に向かう。 尊氏公の出で立ちは、赤地錦の直垂に唐綾威の鎧を着け骨食(こっしょく)太刀、又の名を二つ銘と言う(源)頼政由来の刀を佩(は)く。 舎弟左馬頭直義は赤地の錦の直垂に紫革綴の鎧を着け、篠作太刀(足利家代々の宝刀)を佩く。 香椎の宮に参詣した時に神職から助言を受け尊氏公の軍勢は |
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みな杉の枝を笠符とす(菊池が軍士は篠の葉を笠
符とす)直義を大将として仁木義良 左京太夫細川顕氏兵部少輔畠山國清阿波守山名 時氏伊豆守上杉重能伊豆守?に大友 嶋津伊東等五百餘騎にて筑前の 国多々良浜において合戦あり菊 池討負て肥後国に引退く尊氏 公時氏井に畠山國清に下知有て 八代城を攻落さしむ同四月三日に 尊氏公上洛の評議ありて同廿 六日に太宰府を進発あり相従う 人々には山名伊豆守時氏同右衛門佐 師氏畠山阿波守國清細川兵部少輔 顕氏一色右馬助範光桃井修理亮 義盛石堂右馬助頼房吉良左兵衛尉 荒川参河守渋川中務少輔加古民部 |
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杉の枝を笠符(かさじるし)とする。(菊池軍は篠の葉を笠符とする)
直義を対象に仁木義良(左京太夫)、細川顕氏(兵部少輔)、畠山国清(阿波守)、山名時氏(伊豆守)、上杉重能(伊豆守)并に大友、島津、伊藤等五百余騎で地区全国多々良浜(福岡市東区)にて合戦(多々良浜の戦)に及び、菊池軍が敗れて肥後国に退く。 尊氏公は時氏并びに畠山国清に命じて八代城を落城させる。 同四月三日に尊氏公上洛についての評議を行い、四月二十六日に太宰府を出発。 相従う人々は、山名伊豆守時氏、同(山名)右衛門佐師氏(時氏の子)、畠山阿波守国清、細川兵部少輔顕氏、一色右馬助範光、桃井修理亮義盛、吉良左兵衞尉、荒川三河守、渋川中務小輔、加古民部 |
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少輔を始とし上杉一党三十一人高家
の一族五十餘人九州の大小名百余人 兵船七千三百餘艘にて同廿八日に纜 を解て中国に押渡る同五月朔日に 尊氏公芸州巌嶋に参籠あ り同五日に備後国鞆のうらを 出船あり同廿五日摂州兵庫に着 陣あり新田義貞一族を始め大 軍を卒(率)回軍を卒して和田の御崎に陣 せらる楠河内守正成も一族を卒(率)い て湊川に陣す足利直義軍を 進て楠正成と戦い破れて直義 既に戦死に及んとす尊氏公馬 をす丶めて仁木細川山名一色等 をして直義を救わせらる仁木頼章 山名時氏衆を励し勇を振い能く |
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少輔(等)を始めとして、上杉の一等三十一名、高家(足利方の清和源氏という意味か?)の一族五十余人、九州の大名小名百余人、兵船七千三百余艘にて、四月二十八日にとも綱を解いて中国に押し渡る。
同五月一日に尊氏公は安芸厳島神社に参籠(おこもり)する。 五月五日に備後国鞆の浦を出船し、五月二十五日に摂津国の兵庫に着陣する。 新田義貞は一族をはじめ大軍を率いて和田岬に陣を張り、楠河内守正成も一族を率いて湊川に陣を置く。 (陸路を進んで来た)足利直義は軍を率いて楠正成と対するが、破れて討ち死にを覚悟した時、尊氏公は仁木・細川・山名・一色等の軍を直義救援に向かわせ、仁木頼章・山名時氏は軍兵を励ましては、良く武勇を振るって戦い、 |
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戦うゆえに楠正成戦い破れて広
厳寺に入て自害す一族等多く 討死す新田義貞兄弟正成の討死 を聞て湊川に来り尊氏公兄弟と 大に戦うといえども終に敗軍し京都 に帰り天皇を供奉し比叡山に登る 尊氏公兄弟上洛有り東寺に陣 し持明院殿の御幸をなし諸将 に下知して拝趨の礼を行わる同 六月二日に尊氏公の下知として時 氏比叡山に赴き西坂に陣せらる 同二十日に新田義貞山門の寄手を 討破る時氏も京都に引退る 一、歴応三年庚辰三月に高武蔵守
師直塩治判官高貞が叛逆ある
旨を尊氏公に訴う尊氏公すな |
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楠正成は追い詰められて広厳寺にて自害に至る。一族の多くはこの戦いで討ち死にする。
新田義貞兄弟は楠正成討ち死にの報を聞き湊川に向かって、尊氏兄弟と大いに戦えど、遂には破れて京都へ敗走し、天皇をお連れして比叡山へと登る。 尊氏は上洛して東寺に陣を置き、持明院殿(光厳上皇)の行幸を仰ぎ諸将に命じて拝趨の礼を行わせる。 同六月二日に尊氏公は時氏に命じて比叡山西坂(雲母坂)に陣を置かせる。 同六月二十日に新田義貞は山門への攻め手を討ち破り、時氏は京都に引き下がる。 一歴王三年(1340)庚辰三月に高武蔵守
師直が塩冶(えんや)判官高貞が叛意を持つ旨を尊氏公に進言し、
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わち時氏?に桃井播磨守直常
及び大平出雲守に塩治を追討す べきの由を仰らる同十七日塩冶高貞 密に京都を逃れ出雲国におも むく時に時氏直営共に御所に あり尊氏公両人をして急に彼 を追せらる各宿所に帰らず直に 進発あり時氏の家臣小林民部丞 重長河村山城守秀政猪野七郎 氏晴を始めとし郎従十五騎にて 跡を追て下り此日摂州湊川に 至り翌十八日に賀古川において塩治 高貞においつき無二無三に討て か丶る時氏の嫡男右衛門佐師義士 卒に先達て勇を振わる塩冶が弟 同六郎貞泰返し合て能く戦う |
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尊氏公は直ぐさま時氏ならびに桃井播磨守直常及び、大平出雲守にむかって塩冶を追討すべき旨を述べられる。
同三月十七日に塩冶高貞は密かに京都を出て出雲に向かう。この時に時氏は桃井直常と共に御所に居り、尊氏公は両人に急遽塩冶を追わせ、両人はそれぞれの宿営に戻らずに、直接出発する。 時氏は家臣の小林民部丞重長・河村山城守秀政・猪野七郎氏晴を始めとして、郎党十五騎を従えて、塩冶の後を追って京都を出る。同日中に一行は摂津湊川に至る。 翌三月十八日には加古川で塩冶高貞に追い付き、追って脇目も振らずに討ちかかり戦となる。 時氏の嫡男・右衛門佐師義(師氏)は郎党に先立って勇ましく討って出て、塩冶六郎貞泰(高貞の弟)が応戦し、激しく戦う。 |
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小林民部丞が長子右京進重治
師義の危きを見て進戦い終に 討死す師義士卒を励し塩冶六郎 を討とらる此戦い時を移すうちに 塩冶高貞逃れて小塩山に至る時氏 父子進て是を迫る此処にて高貞 が弟五郎高泰踏止りて討死す高 貞が妻子等は播州蔭山の宿に至 る処に桃井直常追い付て攻けれ ば塩冶が家人八幡六郎妻子を殺し 旅宿に火を掛て亡びけり同月廿 九日に塩冶高貞出 国書着す 同日に時氏父子も同国矢杉庄に 馳付て国中の勢を召集めて将 軍家の命を伝えらる高貞も家 人を集めて佐々布山に楯籠らんと |
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小林民部丞の長子・右京進重治は師義の窮地を見て、身を挺して加勢に加わったが、遂には討ち死にする。
この窮地に師義は郎党を励ましては塩冶六郎を討ち取る。 この戦いの間にも塩冶高貞は更に逃げ、小塩山に至る。時氏父子も高貞を追って小塩山に迫れど、塩冶五郎高泰(高貞の弟)が踏み留まり、時氏の行く手を阻むが討ち取られる。 高貞の祭祀は播州蔭山(姫路市豊富町御蔭)の宿に至るところで桃井直常が追い付き戦いとなる。 塩冶の家臣・八幡六郎は妻子を殺めて宿に火を付けて自害する。 三月二十九日に塩冶高貞は出雲国に下着する。同日中に時氏父子も出雲国矢杉庄(安来)に駆けつけて、国中の軍勢を集めて、将軍家の命令を伝える。 高貞も一族一党を集めて佐々布山(松江市宍道町佐々布)に立て籠もろうと、 |
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宍道山を過る時氏父子急に追
討る丶によりて高貞終に此所に おいて自害す時氏は国中の仕置を 成して京都に帰陣あり 一、貞和元年乙酉八月廿九日に天龍寺
供養によりて尊氏公参詣有り
時氏此節侍月別たるによりて 甲胄の士五十八騎を卒(率)て先駈に 警衛たり同年翻倒において 荻野三宅等叛逆を企だつ尊氏公 時氏に仰せて追討あり時氏の 家臣楢崎三河守を先陣とし河村 山城守を右備えとし小林民部丞を 左備えとし時氏中備えとなり安田 弾正忠を後陣とし都合三千余騎 にて同国高山寺辺において合戦 |
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宍道山を過ぎた折りに時氏父子が急襲をして、遂に高貞は被害へと追い込まれる。
時氏は出雲国内の裁定を整えて京都に帰陣する。 一貞和元年(1345)乙酉八月二十九日に天龍寺
供養にて尊氏公参詣、時氏はこの折り、侍所別当職に在って、甲冑武者五十八騎を率いて先陣の警衛を勤める。
同年丹波国に於いて萩野・三宅等が叛逆を企て、尊氏公は時氏に追討を命じる。 時氏の家臣・楢崎三河守を先陣として、河村山城守を右備として、小林民部丞を左備とし、時氏は中備、安田弾正忠を後陣として、宗全三千余騎の兵で丹波高山寺(丹波市青垣町)周辺にて合戦をする。 |
P054
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ありしに荻野等討負て降参
せり同四年八月に楠帯刀正行(河内守正成也) 河内国に起て京都を窺う尊氏公 細川陸奥守顕氏を大将とし正行 を討せらる藤井寺の戦に細川 破れて引退き天王寺に陣す其 後度々戦うといえども将軍方利 を失うにより評議ありて時氏 を大将として天王寺へおもむかし む同十一月廿三日に時氏嫡子右衛門佐 師義(始の名は師氏)一族家人四千三百人を 卒(率)いて追手の大将として住吉に 陣せらる細川陸奥守も二千余騎 にて搦手の大将として安部野に 陣す楠正行和泉河内摂津の 軍勢を引具し奇計を廻らし
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荻野らは討ち負け降参する。
貞和四年(1348)8月に楠帯刀正行(河内守正成の子)河内国にて決起し、京都を襲う気配が有り 尊氏公は細川陸奥守顕氏を大将として正行討伐に差し向ける。 藤井寺の戦いで、細川軍は敗れて引き下がり、天王寺に陣を張り、その後幾度か戦いを繰り返すが、将軍方の不利は挽回出来ず、評議を開いた結果、時氏を大将として天王寺の陣にむかわせる。 同十一月二十三日に時氏嫡子右衛門佐師義(初めの名は師氏)等一族家臣四千三百人を率いて、追手(正面)の大将として住吉に陣を張る。 細川陸奥守も二千騎の兵を従えて搦手(敵の背後)の大将として安部野に陣を置く。 楠正行は和泉・河内・摂津の在地の兵を味方に引き入れ、奇計を巡らせては |
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戦いけるによりて京勢委く
敗軍す時氏も自ら敵を討こと 数十人にして七ケ所まで疵を蒙ら る河村山城守安田弾正忠等時氏の 前後に従いて防ぎ戦う時氏舎弟 参河守兼義其危きを見て馳来 り敵を追い靡て戦といえ共楠が 勢勝に乗て攻討のあいだ参河守 は誉田将監光康が為に討る此に おいて綿貫下野守原兄弟犬飼 六郎野木與市小松原刑部左衛門 箕浦三郎実俊同藤六等を始め 四十餘人討死し小林河村有路大 坂猪野安田高山等も疵を蒙り 山名細川両家の軍勢多く討死 せしによりて終に戦い破れて京 |
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戦い、将軍側を追い詰める
時氏も自ら敵兵数十人を討つが七ヶ所の傷を受ける。 河村山城守・安田弾正忠等は時氏の前後について防戦するが、時氏の舎弟参河守兼義は時氏の窮地を見て駆け寄り敵を蹴散らせ奮闘をするが、楠軍の方が優勢でその勢いに乗じた攻撃を受けて参河守は誉田将監光康に討たれる。 これらの戦いで、綿貫下野守、原兄弟、犬飼六郎、野木与市、小松原刑部左衛門、箕浦三郎実俊、同(箕浦)藤六らを肇として四十余名が討ち死にし、小林、河村、有路、大坂、猪野、安田、高山等も傷を受け、細川山名両軍も数多く討ち死にし、ついに戦いに敗れて、 |
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都に引退かる
一、文和元年廿八日(一説曰文和二年癸巳六月七日と言)
に時氏は領国にあり嫡子右衛門佐師
義は京都に有るの処に若狭国の所 領の事によりて尊氏公父子に憤 りを含み京都を出て伯耆国に 下り父時氏に子細を申る時氏大 に怒り抑我れ元弘建武の比に 上野国より出て以来一日も尊氏 の為に私曲をおもわず一族の好み を重んじて是を補佐し所々の急 難を凌ぎ多くの一族郎等を失い しも子孫の後栄をおもうの ゆえなりしかるに尊氏父子の心 底いさ丶か遺恨なきにあらず某 倩思うに我が家の祖伊豆守義範 |
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京に引き下がる。
一文和元年(1353)壬辰八月二十八日(一説には、文和二年癸巳六月七日)に時氏は領国の伯耆に居り、嫡子右衛門佐師義が京都に居たところ、若狭国の所領のことについて尊氏公が父子憤りを持ち、師義は京都を出て伯耆国に下って、父の時氏に事の子細を伝える。 |
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は正しく八幡殿の嫡伝として新田
上西入道の嫡子たり今新田の氏 族はあれどもなきがごとし此時我 れ思い立事有ともたれか我れ を武に誇る者と言わんや所詮此 度芳野殿の御味方して家を起こさ んとて小林民部丞重長河村山城守 秀政両人を芳野へ使わして時氏 御味方申て聖運を開しめ奉ら んと四條中将について奏聞あり 芳野の皇居にて公卿詮議有り 山名家は其先き新田大炊助義重 が嫡男たれば今官軍大将を賜 というとも何の子細かあるべきと評議 一決してすなわち時氏を以て南 朝武士の大将とし錦御旗を下 |
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し賜わり忠戦を抽んで聖運を
開らくべきの旨を勅諚あり小林河 村両人は錦御旗を賜わりて急ぎ 伯耆国に下り南帝の勅諚の趣を 申ければ時氏父子大に悦び御旗 戴き手口に出雲国を攻んとて 軍勢を卒(率)いて雲州に至り佐々 木佐渡入道道誉の代官吉田肥前 入道厳覚を攻られしに吉田 入道一戦に利を失て落行けり 是によりて冨田判官秀貞を 始め伊田波多野矢辺小幡等皆時 氏の旗下に降参す時氏は河村山城 守を以て芳野の皇居に奏聞せ らる南帯御感あり重て勅諚に 時氏山陰をて燃都に攻め |
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登べし其時官軍を発し同時に
京都を攻らるべしとなり時氏 勅を受て但馬因幡伯耆隠岐出 雲の軍勢を召集め又使を北国に 使し越前の足利尾張守高経越中 の桃井播磨守直常に北陸道の 軍勢を引具して京都に攻め登 るべきの由を牒し合せらる 一同二年癸巳五月七日に時氏は但
馬出雲丹後の軍勢三千六
を卒(率)して伯耆を発し丹波路を 攻め登らる芳野の大将四條中将 を始め楠左馬頭正儀正成二男赤松弾正 少弼氏範等和泉河内摂津大和 紀伊の軍勢三千二百余騎にて発向 す時氏は路次に逗留あり同六月 |























