妙見大士(みょうけんだいし)

昔、山陰道・八井谷峠の茶屋に祭られていた妙見菩薩

妙見大士.jpg

現在は但馬トンネルで結ばれている、香美町村岡区八井谷-養父市関宮町八木谷は八木谷峠(八井谷峠)と言われていた交通の難所であり、冬場の徒歩での峠越えは大変に危険とされていた。
この八木谷峠の頂上付近に昔峠茶屋があり、行き交う人々はそこで、キツイ峠越えの疲れを癒したという。その茶屋の近くに妙見堂という小さな祠があり、旅する人々は道中の安全を祈念して行ったという。この像はその妙見堂に祀ってあった妙見大士。

妙見信仰は北斗七星に関する信仰が起源とされ、それが旅の安全を導いてくれる「妙見さん」と変化したのかも知れません。
尚、八木谷峠は日本三大妙見の一つである日光院と峰続の場所にあり、その点からも妙見信仰に関心深き人々により、永く大切に尊崇を集めてきたのかもしれません。

交通の流れが自動車中心となり、八木谷峠もその役割を終えると共に茶屋は取り壊され、妙見大士は茶屋を開いていた一族が永く守ってこられました。縁あって当史料館でお預かりさせていただいています。

妙見大士 妙見大士 妙見大士
妙見大士 妙見大士 妙見大士

扁額

尚、妙見堂を飾っていた「額」を見ると、背面に寄贈者と見られる名前が「伯州 小鹿谷 市橋作兵衛」と彫ってある。
現:鳥取県東伯郡湯梨浜町小鹿谷の市橋家は酒造業で財を成した明治の大地主で有るらしい。

お堂に掛かっていた扁額

妙見大士 扁額

裏面には額寄進者の名が

妙見大士 変額

年代

備考

昔、八木谷峠の茶屋付近にあった妙見堂の「妙見さん」
七美郡誌稿より

一、本尊能勢妙見大士
字峠血破坂ニ在リ、堂宇桁三間半梁二間境内地二十三坪余
民有地村ノ共有此所血破坂ノ事蹟未詳
慶應元年乙丑三月勧請堂守信者村岡町藤村重平明治四年未四月ヨリ村岡橋津満右衛門仝廿六年八月ヨリ養子某
血破坂冬の松        補学
松の聲聞かぬ夜もなし血破坂は風吹かぬ日は冬ぞ淋しき

(増補 七美郡誌稿 P97)


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